北海道札幌市出身です。
中学生の時にラジオから流れてきたLOUDNESS等のジャパメタに衝撃を受けました。
貸しレコード屋に通い、借りたレコードをカセットテープにダビングして聴きまくって、『ロッキンf』などの音楽雑誌を読んでいたのでバンドに憧れたのですが、当時はバンドをやるほどのメンバーが居なくて、ほとんどメタルを聴いてばかりでした。
当時はMTVなどのミュージックビデオも流行りだし、深夜に音楽番組を見ていました。
高校に入ると、やっとクラスにもメタルを聴く人がいて、メタルバンドの話をできる仲間ができました。
しかし当時はBOØWYの全盛期で、私のクラスではBOØWYを弾くギタリストばかりでした。
やっと他のクラスにLOUDNESSなどを弾けるギタリストがいると言うので、メタル話をして意気投合し、学校帰りはそのギタリストの家に行き、ギターを弾いているのを見たり、弾かせてもらったりして遊んでいました。
当時はLOUDNESSの『クレイジードクター』が流行りで、ラウドネスが弾ければ上手い、インギー(イングヴェイ)が弾ければ神様くらいの感覚でした。
そして当然バンドを自分でやりたくなるわけですが、すでにギターがいるので最初は歌いたいと思い歌ってみたものの、ハイトーンは出ないし音程も上手く取れないのでベースを弾くことにしました。
その後、誕生日か何かに親にフェルナンデスの初心者用のプレべで、確かグヤトーンのアンプ付きのセットを買ってもらいました。
そしてスケール練習や音楽雑誌に載っているタブ譜を見ながら、知っている曲のコピーなどをしていましたが、やはり独学では上手く弾けないのでメッセのベース教室に通いました。
そこで講師をしていたのが山住隆さんで、後にサーベルタイガーでもベースを弾いていた方でした。
このころ北海道ではデーモン小暮閣下が深夜のテレビ番組『デモタカVIDEO JAM』なる番組をやっていて、イベントや聖飢魔Ⅱのライブを見に札幌のライブハウス、キャンパス21に行きました。
まだデビュー当時で長靴をシルバーのマジックで塗っていたり、使用後のクラッカーにアルミホイルを巻いたスタッズを付けていたりしました。
衣装にたくさんのお金を掛けられる前の工夫が見え、とても親近感がわきました。
私の高校でのバンド活動の方は、ギターとベースがそろったのですが、当時はメタルのドラムを叩ける人が居ないのでメンバー探しには苦労しました。
結局、好きな曲のジャンルは違うのですが、テンポの速い曲が叩けるというので知り合い越しにメンバーを紹介してもらいました。
ボーカルも身近にいた声の高い友人に頼み、ラウドネスの曲などをやり、学祭に一度出た程度だったと思います。
学祭と言っても家庭用のアンプを使ったバンドごっこのようなものでしたが、最初はそんなものですよね。
その後は学校の外のメンバーとバンドを組もうと思い、札幌の大通駅の玉光堂さんに行き、メンバー募集の張り紙を見て下の電話番号を切取り、電話を何件かかけて実際に会い、音合わせをしました。
そして、年が近いメンバー3人が高校生で、歳は一つ下ですが別の道を歩んでいるメンバーのバンドに入りました。
そのバンドは高校生とは思えない格好で、メンバー3人が長髪、夏休みや冬休みはメンバー3人が金髪でした。
当時の札幌では金髪なだけでかなり目立っていました。
とにかくライブがやりたいので、コンテストに出たりライブを精力的に行っていました。
10代のコンテストでは入賞したり、ライブも月に一本以上やって、バンド活動は順調にいっていました。
当時のライブは打ち上げもセットで、ライブはもちろん、仲間との打ち上げも最高の時間でした。
今からは考えられませんが、当時の居酒屋は特に年齢チェックもなく、高校生でも普通に入れてくれました。
私たちが高校生に見えなかったというのもあったのかもしれません。
当時は髪型が自由な学校を選んで受験して入ったのですが、金髪にしたら担任の先生から厳しく指導され、毎日居残りで話し合う日々が1週間続きました。
私も勉強しに学校に行っているのに、これでは勉強の時間が削られてしまうと感じ、それならいっそ留年して1年ずらそうと思い学校に行かなくなりました。
すると、しばらくして匿名で親に学校から電話がかかって来て、「髪型は関係ないから学校に来い」と言うので行ったら、担任の先生の態度はすっかり落ち着いていました。
しかし、担任の担当している教科はテストで高得点でも成績が「1」で、副担任が担当している数学はテストで100点取っているにもかかわらず「3」を付けられ、大学の推薦枠にいたのですがドロップアウトすることになりました。
昭和の学校は今よりもずっと管理が厳しく、頭ごなしに否定されるのではなく「なぜ髪型がいけないのか」をきちんと説明してほしかったという、当時の若者なりの葛藤がありました。
活動していたバンドは私も離れてその後すぐに解散しました。VoとGuは他のバンドで活躍していたのですが、北海道内のライブツアー中に交通事故に遭い、1人死亡、1人に障害が残る重傷でバンド活動ができなくなってしまいました。
その事故は、地方でライブをして、そのまま打ち上げをして、そのまま移動しての居眠り運転でトラックと正面衝突という痛ましいものでした。
金銭的にバンドツアーはきついかもしれませんが、せめて運転手は睡眠をとって安全運転を心がけてほしいと心から願っています。
この体験が、私が歌舞伎町で若者のために最安値の宿泊施設を始めた原点の一つでもあります。
その後は、玉光堂のほか、狸小路のキクヤやヨシダ楽器にメンバー募集の張り紙を見に行ったり、貼りに行ったりして、様々なメンバー候補と会って音合わせをしました。
その中で、北海道大学の軽音楽部のバンドがあり、期間限定のプロ志望バンドでしたが、メタルにプログレを足した感じで、掛け持ちもOK、部室のスタジオも部費の月500円くらい払えば週2で使えるとのことで、良い経験になると思い加入しました。
しかし一番の決め手は、メンバーの人間性が素晴らしかった事です。
この頃、一度ANDROGENUSのオーディションを受けました。その頃のANDROGENUSはキーボードがいて、超セクシーでキュートな女性ヴォーカルで、プリティー・メイズのカバーなどもしていました。
その時は残念ながらご縁がありませんでした。
私は北大軽音バンドをしながらも音合わせを重ねて、中でもメタリカのカバーバンドはとても練習になりました。
そしてイングヴェイのカバーとオリジナル曲が少しあるバンドに加入することになりました。
リーダーはもちろんギタリストで、演奏の技術よりも、髪が長くて華があるかどうかを重視しているようでした。
もちろんギターはストラトで、例の様式美衣装です。
この時のバンドではもう演奏をきっちり合わせることよりも、いかにしてステージで目立つかに走って速弾きのベースソロなどを弾いていました。
その様式美バンドは何度かライブをしましたが、メンバーそれぞれライフスタイルや価値観が大きく異なり、お酒のトラブルなどもあって解散となってしまいました。
その時のボーカルとは、後に東京でテキ屋をやっている時に再会することになり、人の縁の不思議さを感じました。
北大軽音バンドは定期的にライブは行っていたのですが、卒業と共に解散してしまいました。
そのバンドのヴォーカルは、地元のテレビ局のアナウンサーとして北海道では有名人になっていました。
その後はテレビ局を辞めてアメリカに渡り、ジャーナリストの道を選びました。
やっぱり自分のやりたいことを貫く、芯のある人でした。
そしてANDROGENUSに誘われて加入することになりました。
その時はオリジナルメンバーはドラムのケネスだけで、ヴォーカルが居ない状態でのスタートでした。
なかなか理想のヴォーカルには出会えませんでしたが、ライブをやりたい気持ちが強く、活動しながらメンバーを探している状態でした。
この頃は地元札幌のビジュアル系のバンドと対バンする機会が多かったです。
ドラムのケネスは大通公園でライブイベントを主催していたのもあり、ライブは頻繁にできて充実したバンド活動でしたが、ギターやヴォーカルはメンバーチェンジを重ねていました。
この頃ケネスはススキノで飲み屋を始めていたので、人脈もかなり広がっていました。
そんなある時、人の紹介で下山武徳と出会い、タケがANDROGENUSに加入することになりました。
圧倒的な歌唱力があったので一気にコンテストを荒らしたり、札幌ではかなり目立つバンドになりました。
レコーディングやツアーなどを経験し、地元のタウン誌には毎月載せて頂いていました。
勢いに乗った私たちは、大きなコンテストで優勝してデビューを夢見たのですが、結果は審査員特別賞に終わり、お葬式のように静かな打ち上げをしました。
この頃は少し天狗になって、視野が狭くなっていたのかもしれません。
その後バンドは解散し、私とケネスはバンドでプロになるために東京へ出てきました。
なんの当てもなくバンドの機材車に楽器や機材と生活用具を載せて、フェリーに乗って上京しました。
ツアーで東京に来た時に『アルバイトニュース』や賃貸情報の雑誌を買っていたので、東京の部屋の家賃や仕事もすぐに見つかると思ったのですが、当時は金髪長髪ではなかなか仕事が見つからず、「部屋も保証人が遠方だとダメ」と断られることもありました。
サウナやカプセルホテルで求人誌やスポーツ新聞などを見て仕事を探し、昼は面接と不動産屋を巡る日々を送りました。
何度も断られるうちに自分の存在そのものを否定されているような孤独を感じ、精神的にも辛い時期がありました。
雑誌では部屋が見つからなかったので、手当たり次第に不動産屋に飛び込みで入りまくったところ、その中の一つがバンドマンにも偏見を持たず親身になってくれる方で、無事に自社管理の部屋を借りることができました。
やっとゆっくり布団で寝れるようになりました。
そして住所もできて仕事も探しやすくなり、翌日からは仕事探しです。しかしやはり金髪長髪では苦戦し、履歴書を書いて面接を受けまくりました。
そしてティッシュ配りやポスティングや、当時は電話ボックスや電柱へのビラ貼りのバイトもしました。
電柱のビラ貼りでは初日にして警察から指導を受け、すぐにお店側でのティッシュ配りに回されました。
当時はバイトを転々としながらバンドのメンバー募集の活動もしていて、東京の多くのバンドマンに会いました。
最初の印象は「プロ志望と言いながらも、実際には熱量や方向性に温度差があることが多いな」と感じました。
メンバー探しと偵察を兼ねてエクスプロージョンに行った時は、箱がコンパクトで驚きました。
他にもテレビで見ていたバンドマンにも会ったのですが、事務所から給料は出ていたそうですが、生活は決して楽ではないように見えました。
いくつかメンバーを探していると、「当時のホコ天(原宿の歩行者天国)で毎週演奏しているから」と言われ、会いに行ってテープをもらい、翌週にはオーディションやリハを兼ねていきなりホコ天デビューしてしまいました。
そのバンドではホコ天のセッション的な立場で、練習と情報収集、お客さんをつかむために用事のない時は出演し続けました。
そのバンドは女性のベースヴォーカルで、衣装がハイレグのレオタード衣装ということもあり、カメラマンやお客さんも多く、テレビなどにも出ていたようで話題のバンドだったようです。
しかし、しばらくするとホコ天自体が無くなってしまいました。
お客さんにとっても無料でたくさんのバンドが見れて、バンドもかっこよければライブのチケットが売れる良い場所だっただけに非常に残念です。
バンドのメンバー探しは難航しましたが、この頃に地元でも続けていた空手の道場に入門しました。
やはり個人競技は自分のペースで努力して結果を出せるので、精神的にすごく楽でした。
メンバー募集も兼ねてライブを見に行ったり、打ち上げにも顔を出したりしました。
そしてとにかく何が何でも音楽の道で生きていきたかったので、テレビ番組でオーディションがあればなんでも出まくっていました。
当時のバラエティー番組などにはそれなりに出ていました。
テレビに出たところで、身近な人に声をかけられたり、電話が来たりはしますが、ライブの動員にはそれほど直結しませんでした。
まだ印象に残るようなアピールができていなかったのだと思います。
なんとかメンバーを集めて毎月ライブをしていましたが、たまに雑誌に出たりする程度の活動でした。
はたから見ると精力的に動いているように見えたと思いますが、音楽性や活動のペースに関してはメンバー間で意見の相違がありました。私はあせっていたこともあり、今までの経験から「演奏力も大切だが、まずは存在感を出して知ってもらうこと」そして「ライブにお客さんを呼ぶこと」が重要だと考えていました。
それなりにライブを続けていたバンドでしたが、方向性の違いから解散という道を選びました。
そしてまたバンドのメンバー探しの始まりです。
この頃は多少東京でも知り合いもできていたり、紹介してもらったりと、ヴォーカル以外はスムーズに見つかりそうでした。
中にはすごく演奏力の高いバンドで、「ベースだけいなくて、加入すればすぐに動ける」というお誘いもあったのですが、自分たちの目指す見せ方とは少し違っていたため、丁重にお断りしてしまいました。
当時はドリーム・シアターなども流行っていましたね。
当時の私は「知ってもらうためには、華があってカリスマ性のあるヴォーカルが絶対に必要だ」と強く考えていました。
気の合う知り合いのギターとメンバーを探すことになったのですが、部屋に楽器を持って飲みながら曲を作ったりと、なんだか高校時代に逆戻りしたような楽しさもありました。
ライブに行っては打ち上げに行って、ライブと打ち上げどっちがメインかわかりませんでしたね(笑)。
この当時は、過去に一部のバンドマンがトラブルを起こしてしまった影響もあり、楽器を持っての入店やバンドマンの利用をお断りしている居酒屋もありました。
そんなことをしながら時は過ぎていくのですが、空手の道場も時間ができたので毎日通うようになりました。
そしてK-1のお手伝いもしていて、試合もアマチュアなら自分のタイミングで出場できるので、人に影響されることもなくてのびのびとできました。
もちろんバンドや音楽は大好きなのですが、グループ活動ならではの「自分の思うようにいかない葛藤」は少なからずありました。
空手と仕事の日々でしたが、仕事先の経営者が変わることで労働条件が変わるため、これを機に退職しました。
そして、かねてから興味のあったロックバーをやろうと準備に取り掛かりながら、週末や日曜はライブに行って打ち上げに参加し、色々な人と交流を深めていました。
しばらくしてご縁のある物件が見つかったので、歌舞伎町でメタルバーをオープンしました。
打ち上げなどで連絡先を交換していた人たちに知らせると、みんなとても驚いていました。
「本当にやるの?」と半信半疑だったようです。資金面でパトロンのような存在がいると誤解されることもありましたが、実際はバンド活動を控え、真面目に働いていたことで自然と資金が準備できていたのです。
ロックバーオープン当初は、まだ認知度もないのでライブ会場でチラシ配りをして、一人ひとりに熱心に声をかけてお客さんを増やしました。
やっているうちにお客さんがバンドマンを連れてきてくれたり、レーベルの社長や音楽プロデューサーなどを連れてきてくれてお店はどんどん盛り上がっていきました。
お店をやって10年も経てば周りの環境も変わり、私自身にも変化が起きてきます。
私がロックバーをオープンした頃はまだその手のお店は少なかったのですが、次第にお店も増えて私がやらなくてもシーンは盛り上がっていると感じました。また、格闘技関係のお客さんや、かつては学生だった方々も家庭を持ち「道場に行きたいけど時間がない」という話を聞くようになりました。私自身も自分の技術を後世に残したいという思いや、夜の飲食店を続けていくことへの健康面での不安も感じていた時期でした。
そんな中、深夜営業のキックボクシングジムをオープンしました。
今では24時間ジムが当たり前ですが、当時は「夜中に格闘技ジムをやって誰が来るんだ?」と心配する声もありました。
しかしオープンしてみると、キックボクシングだけでなく、筋トレ目的で通う方もいて想像以上に活気が出ました。
数年後には無人の24時間ジムが増えたのでそこまでは忙しくはならなくなりましたが、夜の仕事を辞めて一番良かったのは、本を読む時間が増えたことでした。
お酒はうまく付き合わなければ、自分の大切な時間を失ってしまいますからね。
実際にジムを運営してみると、試合に出場したい人よりも、ダイエットや運動不足解消が目的の方がほとんどでした。
私には減量やトレーニングの知識がありましたが、皆さんがモチベーションを保って継続するのは簡単ではありません。心理学の本を読んでアドバイスを試みても、すぐには望むような結果は出ませんでした。本によって書いてあることも様々でした。
そこで、小手先の知識ではなく一度本格的に心理学を勉強しようと決意し、通信制大学に入学して学び直しました。
また、よく「もう〇〇歳なので遅いですよね」と自分で限界を作ってしまう方に、「何歳からでも挑戦できる」ということを自分自身の姿で証明したいという思いもありました。
周りの人の協力もあり、スクーリングは大変でしたが何とか4年で卒業し、「認定心理士」となりました。
心理学を学んで一番良かったのは、自分自身を深く見つめ直すことができたことです。
そして「人それぞれ価値観は違うのだから正解はない。みんな自分の好きなことをすればいい」と、心から思えるようになりました。
そして東京でのオリンピック開催が決まった時に、何か関わりたい、出場したいという思いが湧きました。
もちろんメジャーな競技はすでにトップアスリートたちがしのぎを削っているので、マイナー競技を視野に入れて調べました。
しかし、どの競技にも当然ながら長年努力してきた素晴らしい選手がたくさんいます。
そこで、私が今まで経験してきた「忍者」のスキルを活かして、開会式への出演を目指すことにしました。
とはいえ何をやっていいかわからないので、以前忍者体験をしていた道場でインストラクターをしたり、侍ミュージアムで「忍者vs侍ショー」に出演して腕を磨きながら、都知事や開会式のプロデューサーに手紙を書いたり、オリンピックに関係のありそうな人に会って忍者のアピールをしていきました。
侍ミュージアムでのショーも、忍者体験も絶好調な中、突然コロナ禍がやって来ました。
初めは毎年のインフルエンザくらいかと思っていましたが、連日報道が加熱し、非常に不安な日々が続きました。
しばらくして東京都から様々なデータが発表されるようになり、冷静に状況を見守っていましたが、東京オリンピックも延期となり、規模も縮小されていきました。
社会全体が停滞していた時期でしたが、私には時間だけはあったので、通信制の大学で法学を学び始めました。
ジムの経営に対する不安もあり、法律の知識や資格を持っておきたいという思いからでした。
初めは時間もあって得意な分野から勉強したので、順調に単位を取っていきました。
そして翌年の年明け、ジムの上の物件が空いたのを機に、民泊を始めることにしました。
法学部の勉強も宅建士試験をメインにシフトし、住宅宿泊管理業者を目指して勉強を重ね、無事に資格を取得することができました。
ただ、その目標を達成したことで法学部の勉強の方は少しモチベーションが落ち着いてしまいました。
現在は新たな挑戦として、英会話の勉強をして英検を受けようと準備しています。
民泊の方は、初めはタイのムエタイジムのように、試合や練習の選手などが集まる合宿所のような場所にしたいと思い描いていました。しかし、実際に始めてみると体を動かす目的の方は少なく、宿泊者同士でコミュニケーションを取ろうとする方も想定していたより少ないのが現実でした。
もちろん、宿泊業をやる以上、ある程度のご要望やトラブルは最初から覚悟していましたが、想定外の事態に悩まされることもありました。
例えば、親御さんが代理で予約を取り、中高生のお子様だけで宿泊されるケースでは、昼夜問わず頻繁な電話サポートが必要となり、運営側として対応の難しさを痛感しました。
また、本当に素晴らしいお人柄のお客様たちであっても、生活スタイルやコミュニケーションの形が全く異なるグループ同士が同じ空間を共有することになるため、すべてのお客様にストレスなく快適に過ごしていただくための環境づくりや配慮のバランスが、非常に難しいと感じる出来事もありました。
元々はお金も稼ぎたいという思いもありましたが、こうした現場での様々な経験を通じて、やはり私は「都内のホテルが高騰して宿泊できなくなった試合の選手や、ツアーでやってくるバンドマンたちを支援したい」という当初の強い思いに立ち返りました。
私自身が札幌から機材車で上京し、苦労した過去があるからこそ、今はそちらの支援に力を入れ、共感してくださるお客さんを増やそうとしています。
私はどうしても、自分の心が動く、好きな事でしか仕事ができません。
そして年齢を重ねるにつれ、人の役に立たなければ生きている価値がないような気がして、周りの人の役に立って生きていきたいと強く願うようになりました。
これからも、不器用ながら全力で走り続けますので、どうぞよろしくお願いします。