このブロックは画面サイズによって見た目が変化する特殊なブロックです
※編集・削除ができる項目も画面サイズによって異なります

詳細はヘルプページの「フローティングメニューブロックの編集」をご確認ください
予約・お問合せ
shinjuku.gym@gmail.com
LINE
 
電話受付:平日18:00~3:00
新宿スポーツジム
080-1987-1739

バックステージハウス新宿
10人部屋(31畳)貸切
1泊2万円〜

東京のホテルの宿泊費が高くなり、ライブツアーをするのに困難になったアーティスト、アスリート、バンドのために、元バンドマンのオーナーが新宿に格安の宿泊施設をオープンしました。
部屋は約31帖の広い部屋に必要最低限の備品と二段ベッドで寮や合宿所を連想させます。
かっこいいバンドが気軽に東京でライブができて、東京で活躍する地方や外国のバンドを応援したいと思います。

場所も新宿歌舞伎町で多くのライブハウスもあり、東新宿駅も徒歩2分と都内はどこに行くにもアクセスが良いです。
控室替わりや打ち上げも時間を気にせずに行えます。

アーティスト&アスリート&リピーター割引
一泊20000円
一般一泊30000円

オーナーは札幌出身の元バンドマン。
現在は新宿歌舞伎町でキックボクシングジムと民泊を経営して、プロレスに参戦、忍者、パフォーマーとして活躍います。
東京の宿泊費高騰を受け、頑張っているバンド活動を活動をサポートするためにコストを抑えた必要最低限の設備と二段ベッドで合宿所のような格安宿泊施設を提供しています。
ライブやイベントなどにぜひご利用ください!

お年玉キャンペーン
2025年2月末まで。
連続2日以上の宿泊で、
平日一部屋貸切10,000円
10名様まで宿泊できます。

shinjuku.gym@gmail.com

ウイークリー・マンスリー利用もリーズナブルにご利用いただけます。
東京・歌舞伎町エリアで、1週間以上の長期滞在、観光・ビジネス・ワーケーション・留学・アスリートの合宿など、さまざまなニーズに対応できる部屋です。

当民泊の特徴
駅チカの好立地 – 新宿・東新宿駅からすぐの便利なロケーション
リーズナブルな価格 – ホテルよりお得な長期滞在プラン
広々としたお部屋 – グループやチームや家族でも快適に過ごせる間取り
設備充実 – フリーWi-Fi完備、キッチン・家電付きです。
ホストは同じ建物の地下にいますので安心、安全、トラブル時の対応も迅速です。

1週間~数カ月の長期滞在をご希望の方は、お気軽にお問い合わせください。

施設紹介

ベッド
二段ベッドとなります。
現在はベッドごとに仕切りがあります。
リビング
スーツケースを開くのに充分な広さがあります。
メンバーでのミーティングも行えます。
シャワー
シンプルなシャワーでリンスインシャンプーとボディソープ、バスタオル1人1枚が完備されています。
トイレ
シャワー洗浄付きトイレとなります。
小見出し
ここをクリックして表示したいテキストを入力してください。

予約方法

まずは宿泊希望日をお知らせください。
宿泊希望日が空室でしたら宿泊費の全額を48時間以内に、クレジットカードまたは銀行振込でお支払いください。
入金が確認できましたら予約確定となります。
入金ができない場合は自動でキャンセル扱いとなります。
あとは当日までに代表者の写真付き身分証明書の確認と、チェックイン手続きを行いましたらお部屋を利用できます。
キャンセル料金は当日、前日100%、3日前50%、、1週間前20%、予約後は手数料などの実費が掛かります。

ハウスルール

部屋は禁煙となっております。
タバコはエレベーター横の喫煙所で吸ってください。
ペットは禁止です。
室内は土足禁止です。
パーティーは禁止です。
ゴミの分別にご協力いただき、ゴミが溜まったらドアの外に出してください。
近隣への迷惑になる行為は禁止です。

アクセス

名称
バックステージハウス新宿
予約・問合せ
shinjuku.gym@gmail.com
LINE
080-1987-1739
(18:00~ 新宿スポーツジム)
住所
〒160-0021
東京都新宿区歌舞伎町2-2-10
スリーゴールド東新宿ビル 3A
アクセス
地下鉄 東新宿駅 徒歩2分
地下鉄 新宿三丁目駅 徒歩5分
JR 新宿駅 東口 徒歩10分
近くにコインバーキング多数あり
見出し
見出し ここをクリックして表示したいテキストを入力してください。テキストは「右寄せ」「中央寄せ」「左寄せ」といった整列方向、「太字」「斜体」「下線」「取り消し線」、「文字サイズ」「文字色」「文字の背景色」など細かく編集することができます。テキストテキストテキストテキストテキストテキストテキストテキストテキスト...。テキストテキストテキストテキストテキストテキストテキストテキストテキスト...。テキストテキストテキストテキストテキストテキストテキストテキストテキスト...。

予約・お問い合わせ 
新宿スポーツジム
shinjuku.gym@gmail.com
LINE
080-1987-1739(18:00~)

無料Wi-Fi
シャワー
ウォシュレット
エアコン
暖房
冷蔵庫
エレベーター
二段ベッド
コンロ

シャンプー
ボディーソープ
ヘアドライヤー

基本的な調理器具
電子レンジ
食器
炊飯器
簡易キッチン
電子ケトル

リビングルーム
玄関
タオル
トイレットペーパー

清掃用品
火災報知器
窓転落防止柵

1か月単位の長期滞在も対応しています、
その他何でもご相談ください。

スタッフ紹介

代表:RIKIYA

北海道札幌市出身
中学生の時にラジオから流れてきたラウドネス等のジャパメタに衝撃を受け。
貸しレコード屋に通い、借りたレコードをカセットテープにダビングして聞きまくってロッキンfなどの音楽雑誌を読んでいたのでバンドに憧れたのですが、バンドをやるほどのメンバーが居なくてほとんどメタルを聞いてばかりでした。
当時はMTVなどのミュージックビデオも流行りだし、深夜に音楽番組を見ていました。

高校に入ると、やっとクラスにもメタルを聴く人もいてメタルバンドの話をできる人も居ました。
しかし当時はBOØWYの全盛期で、私のクラスではBOØWYを弾くギタリストばかりでした。
やっと他のクラスにLOUDNESSなどを弾きギタリストがいると言うのでメタル話をして意気投合して、学校帰りはそのギタリストの家に行きギターを弾いているのを見たり、弾かせてもらったりして遊んでいました。
当時はLOUDNESSのクレイジードクターが流行りで、ラウドネスが弾ければ上手い、インギー弾ければ神様くらいの感覚でした。
そして当然バンドを自分でやりたくなるわけですが、すでにギターがいるので最初は歌いたいと思い歌ったのですが、ハイトーンは出ないし音程も上手く取れないのでベースを弾くことにしました。
その後誕生日か何かに親にフェルナンデスの初心者用のプレべで確かグヤトーンのアンプ付きのセットを買ってもらいました。
そしてスケール練習や音楽雑誌に載っているタブ譜を見ながら知っている曲のコピーなどをしていましたが、やはり上手く弾けないのでメッセのベース教室に通いました。
そこで講師をしていたのが山住隆さんで後にサーベルタイガーデモベースを弾いていました。
このころ北海道ではデーモン小暮閣下が深夜のテレビ番組デモタカビデオジャムなる番組をやっていて、イベントや聖飢魔Ⅱのライブを見に札幌のライブハウス、キャンパス21に行きました。
まだデビュー当時で長靴をシルバーのマジックで塗っていたり、使用後のクラッカーにアルミホイルを巻いたスッタッズを付けていました。
デビュー当時はまだ衣装にお金を掛けられなかったんだと思いますし、親近感がわきました。
 私の高校でのバンド活動の方は、ギターとベースがそろったのですが、当時はメタルのドラムをたたける人が居ないのでメンバー探しは困りました。
結局好きな曲のジャンルは違うのですが、早いのが叩けるというので知り合い越しにメンバーを紹介してもらいました。
ボーカルもその辺の声が高いだけの身の回りにいたメンバーでラウドネスの曲などをやり学際一回だけで終わったんじゃないかな?
学際と言っても家庭用のアンプで学校でバンドごっこみたいものです、最初はこんなもんですね?

その後は学校の外のメンバーとバンドを組もうと思い、札幌の大通り駅の玉光堂さんに行き、メンバー募集の張り紙を見て下の電話番号を切取り電話を何件かかけ実際に合い音合わせをしました。

そして音合わせをして年が近いメンバー3人が高校生で、歳は一つ下ですが学校へ行っていないメンバーのバンドに入りました。
そのバンドは高校生とは思えない格好で、メンバー3人が長髪で、夏休みや冬休みはメンバー3人が金髪でした。
当時の札幌では金髪なだけでかなり目立っていました。
とにかくライブがやりたいので、コンテストやライブをしまくっていました。
コンテストでは10代のコンテストでは入賞したり、ライブも月に一本以上やってバンド活動は順調にいっていました。
当時のライブは打ち上げもセットで、ライブも楽しかったですが打ち上げも楽しかったです。
今からは考えられませんが、当時の居酒屋は特に年齢チェックもなく高校生でも普通に入れてくれました。
私たちが高校生に見えないのもあったかもしれませんが?

当時は髪型が自由な学校を選んで受験して入ったのですが、なぜか金髪にしたら担任の先生に怒られ、毎日居残りで説教をされる日々が1週間続き、私も勉強しに学校に行っているのに勉強の邪魔をするので留年して1年ずらそうと思い学校に行かなくなると、しばらくして匿名で親に学校から電話がかかって来て、髪型は関係ないから学校に来いと言うので行ったら担任はおとなしくなっていました。
しかし、担任の担当している教科は成績はテストで高得点でも1で、副担任が担当している数学はテストで100点取っているにもかかわらずに3を付けられ、大学の推薦枠にいたのですが見事にドロップアウトしました。
昭和の学校は軍隊的でした?
それにしても昭和の先生は、今の時代だったら首どころか社会生活送れていないでしょうね?
せめてロン毛や金髪がダメな理由をきちんと説明してほしいですね。

活動していたバンドは私も離れてその後すぐに解散して、VoとGuは他のバンドで活躍していたのですが、北海道内のライブツアー中に交通事故で1人死亡、1人障害が残る重傷でバンド活動ができなくなってしまっていました。
その事故は、地方でライブをして、そのまま打上してそのまま移動しての居眠り運転でトラックと正面衝突というものでした。
金銭的にバンドツアーはきついかもしれませんが、せめて運転手は睡眠をとって安全運転を心がけましょう。
この体験も私が歌舞伎町最安値の民泊を始めた理由の一つでもあります。
その後はメンバーを探したり、加入するバンドを探しに、玉光堂他狸小路のキクヤやヨシダ楽器に、メンバー募集の張り紙を見にったり、貼りに行ったりしてメンバー候補と会ったり音合わせをしました。
その中の1人と会った時に、北海道大学の軽音学部のバンドがあり期間限定のプロ志望バンドでしたが、メタルにプログレを足した感じで、バンドの掛け持ちもOKで、部室のスタジオも部費の月500円くらい払えば週2使えるとのことで練習になると思い加入しました。
しかし1番の決め手は人間性が良かった事です。
この頃一度ANDROGENUSのオーディションを受けました、その頃のANDROGENUSはキーボードがいて、ヴォーカルも超セクシーキュートな女性ヴォーカルでプリティーメイズのカバーもしていました。
その時は残念ながら加入にはいたりませんでした。

私は北大軽音バンドをしながらも音合わせを重ねて、中でもメタリカのカバーバンドは練習になりました。
そしてイングヴェイのカバーとオリジナル曲が少あるバンドに加入することになりました。
リーダーはもちろんギタリストで、あまり上手い下手気にせず、どちらかというと髪が長い方が気になっているようでした。
もちろんギターはストラトで例の様式美衣装です。
この時のバンドではもう演奏を合わせることを諦めて、いかにして目立つかに走って速弾きのベースソロなど弾いていました。
その様式美バンドはライブを何度かしましたがmドラマーが酒乱でヴォーカルは不良で解散しました。
そのボーカルは後に東京でテキ屋をやっていて再会することになるとは思ってもいませんでした。
そして北大軽音バンドは定期的にライブは行っていたのですが、卒業と共に解散してしまいました。
そのバンドのヴォーカルは地元のテレビ局のアナウンサーとして、北海道では有名人になっていました。
その後はテレビ局を辞めてアメリカに渡りジャーナリストの道を選びました。
やっぱりやりたいことをやる人でした。
そしてANDROGENUSに誘われて加入することになりました。
その時はオリジナルメンバーはケネスだけで、ヴォーカルが居ない状態でのスタートでした。
なかなか良いヴォーカルはいませんでしたがライブをやりたいのでイマイチのヴォーカルでしたが活動しながらメンバーを探している状態でした。
この頃は地元札幌のビジュアル系のバンドと対バンする機会が多かったです。
ドラムのケネスは大通公園でライブイベントを主催していたのもあり、ライブは頻繁にできて充実したバンド活動でした、しかしギターやヴォーカルはメンバーチェンジを重ねていました。
この頃ドラムのケネスはススキノで飲み屋を始めていたので人脈もかなり広がっていました。
そんなある時人の紹介で下山武徳と出会いタケがANDROGENUSに加入することになりました。
歌がうまかったので一気にコンテストを荒らしたり、札幌では目立つバンドになりました。
レコーディングやツアーなどを経験し、地元のタウン誌には毎月載せて頂いていました。
勢いに乗った私たちは大きなコンテストで優勝してデビューを夢見たのですが、コンテストでは審査員特別賞に終わり葬式のような打ち上げをしました。
この頃は勘違いして思い上がっていました。
その後バンドは解散し私とドラムのケネスはバンドでプロになるために東京出てきました。
なんの当てもなくバンドの機材車に楽器や機材と生活用具を載せてフェリーに乗って上京しました。
ツアーで東京に来た時にアルバイトニュースや賃貸情報の雑誌を買っていたので、東京の部屋の家賃や仕事もすぐに見つかると思ったのですが、なんせ当時は金髪長髪では仕事もなく、部屋も保証人が札幌だとダメと言われたりと、サウナやカプセルホテルで求人誌やスポーツ新聞などで仕事などを調べて、昼は仕事の面接と不動産屋を巡る日々を送りながら何十件も面接を落とされると人間的に否定されているような気になりさすがに精神的にも参ってきた時に、雑誌では部屋が見つからなかったので、手当たり次第に目に入った不動産屋に飛び込みで入りまくった不動産屋の一つが、バンドマンにも偏見を持たない方で、自社管理の部屋が借りられました。
やっとゆっくり寝れるようになりました。
そして住所もできて仕事も探しやすくなり、翌日からは仕事探し、しかし当時は金髪長髪ではなかなか仕事が見つからず、履歴書を書いて面接を受けまくりました。
そしてティッシュ配りやポスティングや当時は電話ボックスへのビラ貼りや電柱へのビラ張りのバイトをしました。
電柱のビラ張りでは初日にして警察に注意されお店側にティッシュ配りに回されました。
当時はバイトを転々としながらバンドのメンバー募集の活動もしていて、東京の多くのバンドマンに会いました。
最初の印象は思ったよりもプロ志望と言いながら真剣にやっている人は少ないなと思いました。
メンバー探しと偵察兼ねてエクスプロージョンに行った時は、箱が小さくて驚きました。
他にもテレビで見ていたバンドマンにもあったのですが、事務所から給料は出ていたそうですが、ギリギリの生活に見えました。
いくつかバンド活動をするためのメンバーを探していると、そこの一つのバンドが当時のホコ天(原宿の歩行者天国)で毎週演奏しているからと言われ会いに行ってテープをもらい、翌週にはオーディションやリハを兼ねていきなりホコ天デビューしてしまいました。
そのバンドではホコ天のセッション的な立場で、練習と情報収集やお客さんをつかむために用事のない時は出演し続けました。
そのバンドは女性のベースヴォーカルで、衣装がハイレグのレオタード衣装でカメラ小僧やお客さんも多く、テレビなども出ていたようで話題のバンドだったようです。
しかし、しばらくするとホコ天は無くなっていまいました。
お客さんにとっても無料でたくさんのバンドが見れて、バンドもかっこよければライブのチケットが売れる良い場所だっただけに残念です。
バンドのメンバー探しは難航しましたが、この頃に地元でも続けていた空手の道場に入門しました。
やはり個人競技は自分で決めて動くだけなのですごく楽ですね。
メンバー募集も兼ねてライブを見に行ったり、打ち上げにも顔出したりしました。
そしてとにかく何が名でもバンドでプロになりたかったので、テレビ番組でオーディションがあればなんでも出まくっていました。
当時のバラエティー番組などにはそれなりに出ていました。
テレビに出たところで、身近な人には声かられたり、電話が来たりしますが、ライブの動員にはそれほどつながらなかったです。
まだ印象が薄かったのでしょうね?
なんとかメンバーを集めて毎月ライブをしていましたが、たまに雑誌に出たりする程度の売れないインディーズバンドでした。
はたから見ると活動的に動いているように見えたと思いますが、音楽や活動に関してはメンバー間の意見は違い、私はプロになりたいのであせっていましたし、いままでの仕事の経験上から演奏力も大切ですがめっだったり存在感を出さないといけないと考え、そしてライブもお客さんを入れなければいけないと考えていました。
それなりにライブを続けていたバンドでしたがバンドに対する活動の意見の相違で解散してしまいました。
そしてまたベンドのメンバー探しの始まり。
この頃は多少東京でも知り合いもできていたり、ファンの子から紹介されたりと、ヴォーカル以外は簡単に見つかりそうでした。
中にはすごく上手いバンドでベースだけいなくて加入すればすぐに動けるバンドもあったのですが、何せ華が無いので断ってしまいました。
当時はドリームシアターも流行っていましたからね。
当時の考えはバンドで売れるために東京に来たので、上手くなるのは後で良いと思っていて、そのためには華があってカリスマ性のあるヴォーカルが必要だと考えていました。
気の合う知り合いのギターとメンバーを探すことになったのですが、部屋に楽器を持って飲みながら曲を作ったりと、高校時代に逆戻り。
ライブに行っては打ち上げ行って、ライブと打ち上げどっちがメインかわかりませんでした?笑
この当時はバンドの打上ができなかったり、楽器を持ってく入店禁止やバンドマン出禁の居酒屋もありました。
某バンドの某氏のせいだという事ですが?笑
そんなことしながら時は過ぎていくのですが、空手の道場もこの頃から時間ができたので毎日通うようになりました。
そしてK −1のお手伝いもしていて、試合もアマチュアなら好きな時に出場できるので、人に影響されることもなくてストレスがなかったです。
もちろんバンドや音楽は好きなのですが、どうしても自分の思うようにいかないストレスは大きかったです。
空手と仕事の日々でしたが仕事の方が経営者が変わるということで、労働条件が変わるのでこの機会に辞めました。
そしてロックバーをやろうと準備に取り掛かりながら、週末や日曜はライブに行って打ち上げ行って営業していました。
しばらくして物件も見つかったので歌舞伎町でメタルバーをオープンしました。
この時は打ち上げなどで連絡先を交換していた人たちに知らせると驚かれました。
本当に店をオープンすると思っていなかったようで、ほら吹きに思われていたようです?
お金がどこから出て来たのか不思議だったんでしょうね?
特にお金を出してくれる女性がいるわけではなく、お金は勝手に貯まっていったというか、バンド活動しないとこんなにお金が貯まるんだと自分でも驚いたくらいです。
ロックバーオープン当初は、お客さんもいないのでライブ会場でチラシ配りでほとんどナンパ状態でお客さんを増やしました。
やっているうちにお客さんがバンドマンを連れてきてくれたり、レーベルの社長や音楽プロデューサーなどを連れてきてくれてお店は盛り上がって行きました。
お店をやって10年も経てば周りの環境も変わり、私自身にも変化が起きて来ます。
私がロックバーをオープンした頃は、まだその手のお店は少なかったのですが、その頃はお店も増えて私がやる必要もなく、格闘技関係のお客さんも、あった頃は学生だった人も、仕事をして家庭などを持って、道場に行きたいけど時間がない話を聞き、私も自分の技術を後世に残したいのと、このまま飲み屋を続けて行くのに、健康的にも不安に思っていた時でした。
そんな中深夜営業のキックボクシングジムをオープンしました。
今では24時間ジムが当たり前ですが、当時は夜中にやって誰が来るんだ?
やどうせすぐ潰れるだろうという人もいました。
しかしオープンするとキックボクシング以外も、筋トレなどで通い人もいたので結構忙しかったです。
数年後には無人の24時間ジムが増えたのでそこまでは忙しくはなりませんでしたが、お酒を飲む仕事を辞めてよかったのは、本を読む時間が増えたことでした。
お酒はうまく付き合わなければ時間を浪費してしまいますね?
実際にジムをオープンすると。試合に出場したい人より、ダイエットや運動不足解消がほとんどです。
もちろん減量の知識はあるのですが、皆さん口だけで何もやらない。
心理学の本を読んで、本に書いていることを言ってみても効果なし。
本によっては書いてあることが違ったりしていました。
一度本格的に心理学を勉強しようと通信制大学に入学して勉強をしなおしました。
他にも良く問い合わせで、もう〇〇歳なので遅いですかなど、自分で限界作っている人の見せつけたかったのはあります。
周りの人の協力もあり、スクーリングはきつかったですが、何とか4年で卒業しまし、認定心理士となりました。
心理学を学んで1番良かったのは、自分を見つめ直すことができたことです。
そして人それぞれ違うので、正解はないし、みんな好きなことすればとおもいましt。
そして東京でのオリンピック開催が決まった時に、オリンピックに出場しようと思いました。
もちろんメジャーな競技は、すでに人間離れしている選手が多数いるので、マイナー競技を狙って調べました。
当たり前ですがどの競技にも上手い人や強い人はたくさんいました。
そこで今まで経験が有る忍者で開会式への出演を目指しました。
とはいえ何をやっていいかわからないので、以前忍者体験をしていた道場でインストラクターをして、侍ミュージアムで忍者vs侍ショーに出演して腕を磨きながら、都知事や開会式のプロデューサーに手紙を書いたり、オリンピックに関係のありそうな人に会って忍者のアピールをしていきました。
侍ミュージアムでのショーも、忍者体験も絶好調な中、突然コロナは襲って来ました。
初めは毎年のインフルエンザくらいかと思っていましたが、報道が加熱して、とても危険な病気に見えましtq。
しばらくして東京都で感染者数や死亡者数や年代が発表していたので、数字に詳しい人が見ればすぐに騒動は収まるかと思ったのですが、東京オリンピックも延期からかなりこじんまりした大会になっていました。
コロナ2年目は何でみんな気付かないのか不思議でしたが、時間だけはあったので。通信制の大学で法学を学び始めました。
ジムの仕事がこのまま無くなる不安や、法律の資格でもとっておこうくらいの感覚でした。
初めは時間もあって、得意な教科から勉強したので順調に単位を取っていきました。
そして翌年の年明け、ジムの上の物件が空いたので民泊を始めることにしました。
法学部での勉強も宅建士試験をメインにして、住宅宿泊管理業者になろうと勉強していたのですが、専用の試験や講習で住宅宿泊管理業者になれました。
それとともに法学部の勉強のモチベーションが落ちてしまいました。
現在は英会話の勉強をして英検を受けようと申しこでいます。
民泊の方は初めてタイのムエタイジムのように、試合や練習の選手などが合宿所のようにしたかったのですが、実際は体を動かす人は少なくコミュニケーションを取ろうとする人も思ったより少なかったです。
クレーマーなどを最初から覚悟していたのでなんとも思いませんでした。
一部の予約者は親が予約を取り、中学生や高校生の子供が来て、私の電話にやたらかけてくる人は迷惑でした。
そしてそれが何組か続いたのと、とてもいい人たちだったのですが、聴覚障害者のグループは他のお客さんは結構きつかったと思います。
元々がお金も稼ぎたいですが、試合の選手が都内のホテルが高騰して宿泊できなくなったりしたのを支援したいと思いました。
それは私が札幌でバンドをやっていたので、ツアーのバンドマンにも使ってもらいたいと思って、今はそちらでお客さんを増やそうとしています。
私はどうしても好きな事でしか仕事ができません。
そして年とともに、人の役に立たなければ生きている価値がないような気がして、周りの人の役に立つって生きていきたいと思っています。
これからもよろしくお願いします・
Copyright 2024 バックステージハウス新宿
#バンドツアー向け
#バンドマン歓迎
#楽器
#機材
#バンドツアー宿
#ゲストハウス
#民宿
#ライブハウス近く
#音楽好き集まれ
#バンド練習スタジオ近く
#深夜チェックインOK
#大人数可
#東京バンドハウス
#ライブハウス近く宿
#東京バンドハウス
#ライブハウス
#ライブ
#音楽
#バンド
#ライブ好き
#音楽好きな人と繋がりたい
#ライブハウス巡り
#音楽イベント
#インディーズ
#ライブハウス好きな人と繋がりたい
#ロック
#ポップ
#ジャズ
#インディーズバンド
#ライブハウスバー
#ライブハウス遠征
#モッシュ
#ダイブ
#ライブレポ
#ライブ写真
#ライブ動画
#新宿ライブハウス

#打ち上げ
#お疲れ様会
#飲み会
#ライブ仲間
#ライブハウス
#ライブバー
#居酒屋
#ビール
#乾杯
#リフレッシュ
#絆を深める
#ライブ後 #打ち上げ #ロック #居酒屋 #ビール #最高
#ライブ納め
#今日の飲み
#最安値ホテル
#格安ホテル
#激安宿
#ビジネスホテル
#カプセルホテル
#ネットカフェ#快適ネットカフェ#ネットカフェ生活#24時間ネットカフェ#ネットカフェ探し#ネットカフェの旅#ネットカフェ好き#深夜ネットカフェ#ネットカフェ新宿#カフェで快適作業#ネットカフェ難民#おしゃれネットカフェ#ネットカフェ泊#完全個室ネットカフェ#カフェワークスペース
#最安値#格安#激安#お得情報#超お得#特価#お買い得#割引価格#最安値保証#期間限定価格#安いもの探し#驚きの価格#値下げ中#激安セール#最安価格
#安宿#格安宿泊#リーズナブルな宿#バックパッカー向け#お手頃価格#コスパ最強#低予算旅行#節約旅行#格安旅館#安い宿泊先#お得な宿#旅の節約#手軽に宿泊#低価格宿泊施設#短期滞在向け#シンプルステイ#気軽に泊まれる#安い宿探し#リーズナブル旅#コスパ重視
#貧乏旅行#節約旅行#格安旅行#低予算旅行#バックパッカーの旅#お金をかけない旅#コスパ最強旅行#安く旅する#リーズナブルな旅#節約トラベル#お得な旅行#低コスト旅行#ワンコイン旅#貧乏バックパッカー#節約トリップ#シンプルな旅#手軽な旅行#ミニマムトラベル#安宿旅#お金をかけない冒険